後藤次利さんとカンブリア宮殿のスペシャルゲスト秋元康さんの交友関係

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放送800回記念のスペシャルゲスト、秋元康の第2弾。激流の渦の中にある時代を、

秋元はどう攻略するのか?64歳になっても攻め続ける、秋元の新たな挑戦を追った。

もはや神!!挫折をバネにする人が多い秋元康さんの交友関係。

後藤次利さんと秋元康さんの交流

作曲家・後藤次利と秋元康さんとは「ゴールデンコンビ」と言われている。

後藤次利さんについて

後藤 次利(ごとう つぐとし)1952年2月5日 生。日本のベーシスト・作曲家・編曲家・
音楽プロデューサー。
東京都品川区西五反田出身。青山学院高等部卒業・青山学院大学中退。
妻は元・おニャン子クラブの河合その子さん。13歳差婚。

中学生の時に、姉が購入したビートルズ、ベンチャーズのレコードを聴き始める。
その後、姉に連れて行かれたアストロノウツのコンサートで、前座で出ていた
寺内タケシとブルージーンズの寺内タケシのギターテクニック、アストロノウツの「太陽の彼方に」に衝撃を受ける。
それがきっかけでギターを弾きたくなり、母親にねだってエレキギターを買ってもらい、
ギター教室に通い始める。
譜面が読めなかった後藤は、耳コピーしたり先生の真似をして弾いていた。

大学に進学するもろくに行かずにいたある日、林立夫から電話がかかってきて「ベースやって!」と
頼まれる。
ブレッド&バターと岸部シローのジョイントツアーでベーシストがいなかったためだった。
ギター担当だった後藤は、ツアー開始の数日前に四谷のスタジオで、岸部シローの兄である
岸部一徳についてベースを習得。
ツアーでは岸部一徳に借りたフェンダー・ジャズベースを使用して演奏した。
ツアー後、ブレッド&バターのレコーディングに呼ばれたことが、プロのベーシストとなるきっかけであった。
同時期にレコーディング参加した南正人のアルバム『回帰線』ではギタリストとして演奏している。

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後藤次利さんの音楽活動

フォーライフ・レコードのディレクターに声を掛けて貰ったことがきっかけで、
原田真二の「シャドー・ボクサー」で初めて編曲を担当する

その後、編曲家としての活動も開始し、八神純子、中島みゆきなどの楽曲を手がける。
沢田研二の『TOKIO』で第22回日本レコード大賞編曲賞を受賞した。

1980年代に入ると、作曲家としての活動を本格的に開始。ソフトクリーム、一世風靡セピアを始め、
近藤真彦、シブがき隊、中森明菜、吉川晃司、とんねるず、おニャン子クラブとその関連ユニット、
工藤静香などの作・編曲を多く手がけた。
特にとんねるずやおニャン子クラブ関連では、作詞家の秋元康と組むことが多かった。

また、テレビ番組や企業CMのBGMも多数製作する。

とんねるずやおニャン子クラブのメンバー達、彼らのファン、とんねるずのオールナイトニッポンの
リスナーから「ゴッキー」の愛称で呼ばれていた。

とんねるず(特に石橋貴明)と非常に仲が良く、とんねるずのオールナイトニッポンにも度々登場
ベーシストとしてスタジオワークを開始した当初、レコーディングで譜面が全く読めず、
何回も弾き直していると、別のベーシストと交代させられて帰されたことがあった。

吉田拓郎のツアーに参加した際に知り合ったチト河内の紹介で、鈴木淳の自宅へウッドベースと譜面の勉強をしに通っていた。

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後藤次利さんの楽曲の特徴

1980年代、アイドルへの提供曲ではサビを最初の30秒以内に提示する技法(頭サビ)を多用した。
短時間でインパクトを与えられ、電波に乗る頻度を増やすことができ、リスナーの注意を喚起するとともに楽曲を強く印象付けることができる。
おニャン子クラブで効果をあげたこの方法は以後の作曲家に多用された。
シンセサイザーなどのデジタルサウンドを多用し、コーラスなどにも工夫を凝らした楽曲は話題を
呼び、アイドル歌謡の在り方を変えるまでの影響を及ぼした。
特に作詞家の秋元康とは共に「ゴールデンコンビ」と言われ、多数のヒット曲を生み出した。

大学に行かず、楽譜が読めないところから音楽の世界に入っていった事に驚きました。

ある程度の年齢からどんな人にも頭を下げて貪欲に学んできた事が、
それからの人生の転機になっているようです。

様々な面で苦労したことが、その後の創作活動に影響していると思います。

発想の転換や引き出しの多さと時代を読む嗅覚は、たくさんの人たちとの交流から生まれているのかも知れません。

若い頃の無駄と思えるような挫折や周り道は、信念を持った人達には大きな心の財産になって
昇華されていく事を知りました。

失敗しても短いスパンで考えず、粘り強く自分の可能性を信じていきたいと思います。